第3章 交通事故に遭う
黒谷優が帰宅すると、南坂海乃は出窓の上に腰を下ろし、荷物を整理していた。
薄手のネグリジェ一枚。窓から差し込む陽に包まれ、白い肌がいっそう透けて見える。額にかかったひと房の髪がさらりと揺れ、かつてまとっていた刺々しさが嘘みたいに消えていた。全体が、やけに柔らかい。
――どう見ても、昨日までと違う。
黒谷優は玄関口に立ったまま、喉仏を一度だけ上下させた。
「何してる」
南坂海乃は顔を上げる。
「片づけ。何か用?」
黒谷優は彼女をじっと見据え、胸の奥の苛立ちが濃くなるのを感じた。
また、その態度だ。
昨日からずっとおかしい。どこへ行っていたのかも聞かない。佐藤詩乃のことで目を赤くすることもない。楓花の愚痴にも、まるで反応しない。
結局、気を引くためだろう。
「南坂海乃」
黒谷優は二歩、距離を詰めた。
「いい加減にしろ」
出窓はただでさえ狭い。近づかれた瞬間、彼女はほとんど胸の中に閉じ込められる。熱い息が前髪をかすめ、強引な圧が肌にまとわりついた。
「何のことか分からない」
南坂海乃は淡々と言い、身をひねって出窓から降りようとする。
次の瞬間、手首を乱暴につかまれた。
痛いほどの力だ。眉を寄せた、その刹那――彼女の身体は引きずり下ろされ、よろめいて黒谷優の胸に落ちた。
「とぼけるな」
黒谷優が冷たく嗤う。もう片方の手が腰をつかみ、逃げ道を完全に塞ぐ。
「昨日からずっとその顔だ。佐藤詩乃の誕生日くらいで、そんなに耐えられないのか?」
南坂海乃は抵抗しなかった。
黒谷優という男を、よく知っている。
反抗すればするほど、相手は昂ぶる。従わない獣を調教するみたいに、こちらが折れるまで押さえつけてくる。
でも――もう、折れたくなかった。
「耐えられないわけじゃない。あなたたちが楽しいなら、それでいい」
「じゃあ今、何をしてる」
黒谷優の我慢が切れた。
ドン、と背中が壁に押しつけられる。上から覆いかぶさり、片手で手首を頭上に固定し、もう片方で顎をつまんで無理やり顔を上げさせた。
「南坂海乃。俺はお前を娶った。俺にそんな顔を見せるためじゃない」
言い終わるより早く、唇が乱暴に落ちてくる。
罰みたいなキス。強く吸い上げられ、濃い煙草の匂いと、彼のいつもの冷たいウッディな香りが混ざって、容赦なく感覚を埋め尽くす。
結婚して五年。黒谷優が彼女に触れた回数は、指で数えられるほどだった。
新婚初夜の、酔った勢いの荒さ。
楓花が偶然できた、あの一度。
それ以外のほとんどは、同じベッドで左右に分かれて眠った。触れ合うことすらなく。
自分がそこまで魅力のない女なのかと、疑った夜もある。
今なら分かる。
魅力がないんじゃない。彼の心が、最初から別の女に向いていたのだ。自分に触れることが、裏切りみたいに感じられるほどに。
キスは顎先から喉へ滑り、南坂海乃は力いっぱい押し返す。だが手首はさらにきつく締め上げられた。
「黒谷優……生理なの」
黒谷優が顔を上げる。黒い瞳の奥で欲と、邪魔された苛立ちが渦を巻いた。
「来週じゃなかったか」
「ホルモンが乱れてるの。最近、疲れてたから」
南坂海乃は淡々と続ける。
「どうしても必要なら、佐藤詩乃のところへ行けば。きっと喜ぶ」
――もう出ていくと決めたのだ。
この男は、いらないものとして処分するだけ。絡み合うのは無意味だった。
黒谷優は鼻で笑い、目に露骨な嘲りを浮かべる。
「結局、嫉妬か。俺と詩乃は清い関係だ。お前みたいな汚い考えで、彼女を測るな」
そのとき、彼のスマホが鳴った。
画面が光る一瞬、南坂海乃の視界に差出人が映る。
佐藤詩乃。
『優、足首がまた痛いの。少しだけ来てくれない?』
黒谷優は迷わなかった。踵を返し、そのまま大股で出ていく。
バタン、と閉まった扉を見つめながら、南坂海乃の胸の中は荒野みたいにがらんとしていった。
愛しているか、愛していないか――本当に、分かりやすい。
もう一度やり直せるなら。
二度と、彼とは結婚しない。
スマホが震えた。知らない番号からのSMS。
開くと、佐藤詩乃だった。
『姉さん、ごめんなさい。私が呼んだらすぐ来てくれて……普段も姉さんにこんなふうにしてくれるんですよね? だって姉さんが奥さんだもの』
添付された写真が一枚。
ソファで眠る黒谷優。目を閉じ、乱れた前髪が眉骨に落ち、横顔の線が薄暗い灯りに柔らかく浮かぶ。すぐ傍に佐藤詩乃が寄り添い、その距離は――言い訳が利かないほど甘い。
南坂海乃は黙って、その写真を見た。
以前なら心臓が締めつけられて、息が詰まって、どうして自分は佐藤詩乃に負けるのかと何度も自問したはずだ。
でも今は、口元がほんの少し動くだけだった。
昨夜、帰ってこなかったのは――佐藤詩乃のところにいたのね。
返信はしない。すぐブロックした。
……
午後。南坂海乃は出入国在留管理局で手続きを済ませ、銀行で口座の整理も終えた。
交差点に差しかかったとき、黒いセダンが曲がり角から猛スピードで飛び出してきた。運転手は歩道に人がいるとは思っていなかったのだろう。ブレーキは、間に合わない。
背後から、凄まじい衝撃。
南坂海乃は地面に叩きつけられ、額を強く打った。温かい液体が眉骨を伝い、視界が真っ赤に染まっていく……。
次に目を開けたとき、南坂海乃は病院のベッドにいた。額に鈍い痛み。手を上げて触れようとした瞬間、押さえられる。
「動かないで。額、縫ってます」
傍の看護師が言った。
「腕の傷が少し深いので特効性の抗生剤を使いたいんですが、アレルギーリスクがある薬で……ご家族のサインが必要なんです」
南坂海乃は看護師を見た。
「私がサインじゃ駄目ですか」
「規則で……直系のご家族が必要なんです。お電話して来てもらえますか」
南坂海乃は、苦く笑った。
家族――どこにいるの?
夫は別の女に付き添い、娘は別の女を母にしたがる。
この世界で自分は、とうに独りだ。
それでも看護師を困らせたくなくて、黒谷優に電話をかけた。
「何だ」
南坂海乃がスマホを握り、口を開きかけた、そのとき。
受話口の向こうで、佐藤詩乃の声がした。
「優、先生が呼んでる。検査の結果、出たって」
ほとんど同時に、黒谷優が冷えた声で言う。
「用がないなら切るぞ」
「私……」
一文字が漏れたところで、ツーツーという無機質な音。
切られた。
一言も聞かずに。
「どうです? ご家族、来られそうですか」
南坂海乃はゆっくりスマホを下ろし、首を横に振った。
「家族はいません。私が署名します。何かあっても、自己責任で」
幸い、下半身は擦り傷程度で、脚も足も問題はなかった。署名を済ませ、トイレへ向かう。
壁に手をつきながら、ゆっくり歩く。VIP個室の前を通りかかったとき――聞き慣れた声がした。
「おばちゃん、いつになったら楓花のママになってくれるの?」
楓花だ。
南坂海乃の足が止まる。
病室のドアは少しだけ開いている。隙間から見えたのは、ベッドにもたれる佐藤詩乃。ベッド脇の椅子に座る黒谷優。楓花は佐藤詩乃の膝に寄りかかり、小さな顔を上げていた。
「楓花」
黒谷優が声を落として釘を刺す。
楓花は唇を尖らせ、泣きそうな声で言い返す。
「だって……おばちゃんがママがいいもん!」
南坂海乃は、ただ静かにその光景を見つめた。
もうすぐよ。あと五日。
すぐ、あなたたちの望みどおりになる。
踵を返そうとした、そのとき。
病室の中から、佐藤詩乃の声が飛んできた。
「姉さん……? そこにいるの?」
